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第16回トライアスロン IN 五島列島
水温20度、境界線だ。
体脂肪が少ない中尾友一にとって、完走できるかできないかはその日の水温にかかっている。
トライアスリートは、スイム・バイク・ランと三種目をバランスよくこなすため、マラソン選手のように体脂肪が極端に少ない選手は少ない。
初めてトライアスロンを観戦した人間は、選手たちの体型に驚くことがある。
以外にまるいのだ。
しかし中尾は・・・。
どう見ても10%は切っている。そのうえ82歳。水温の低さは身を引きちぎる。
大会開催地に到着直後から、中尾が水温ばかり気にするのはそのせいだ。
19度、いや20度は超す・・・前日の天気予報に一喜一憂する。
昨年の温海大会では、震えながら海からあがった中尾に、サポーターは愕然とした。
「もう、やめてください」
そう心の中で叫びながら、中尾の求めるままに、お湯をかけ、体をさする。
海水温は17度だった。
「どうすればこの人を止めることができるのだろう」
答えは簡単だ。
中尾を止めることができるのは中尾だけ。
温海では、中尾は走り続けた。
たまたまあった雨合羽を着て、中尾はバイク40キロのスタートを切った。
後ほどサポーターは語った。
「死にますよね、普通は。やめますよね、誰でも」
が中尾を止められるのは、中尾だけなのだ。
そして、今年。
中尾はリタイアを選んだ。
幸先よく、昨年の記録を4分近く短縮してゴールした初戦の石垣島から2週間。
「時間内は無理でも完走します」
中尾はスタッフだけに自信のほどを吐露した。
調整は万全のはずだった。
気になるのは海水温のみ。
「いい感じに上がってきましたね」
私もスタッフも、ことあるごとに口にする。
長崎五島・上五島・・6月でも水温はあまりあがらない。昨年もランの折り返しでリタイア。中尾にとっては、相性のいい大会では決してない。
しかし町長をはじめ島民のほとんどが、中尾を待つ町でもある。町を歩けば、誰からも声がかかる。
「スタートラインに立つだけでもありがたい」
その言葉に、中尾の男気が動いた。
660Mを3周、スタート時、太陽は輝き、空は真っ青
「20度、大丈夫ですよ。ぜったいに」
マスコミに取り囲まれた中尾に合図を送る。
中尾もゆっくりとウォーミングアップ。
最近、トレーニングに取り入れた、相撲の腰割りをじっくりと繰り返す。
周りをいつの間にか、中尾の新しいトレーニング法に興味を持つ選手たちがとり囲む。
中尾は優れた教師だ。
実にうまい。
なぜ、このトレーニングをするのか、その結果、どうなったのか。
シンプルな言葉で伝えていく。
スタートまで30分、選手たちは入水チェックを義務付けられている。
中尾はウェットスーツを着込み、波打ち際に向かう。
取材にきているNHKのスタッフから声がかかる。
「中尾さん、水温はどうですか」
中尾はゆっくり振り向き、小さなしぐさでその自信を示す。
大丈夫だ。20度は超えている。波も小さい。
9時、中尾はいつものように集団の後ろから、ゆっくりと海に向かう。
その背が心なしか、小さく見えた。
中尾はスイムが苦手だ。初めてのトライアスロンでは見事におぼれて、ダイバーに救助された。
が好調なとき、そのスイムスーツが大きく見える。今年の初戦、石垣がそうだった。見えるはずのないところまで泳いで行っても、いつまでも中尾の姿を追うことができた。
その中尾を、奈良尾ではあっという間に見失った。
「とんでもないこと強いているよね」
私は、隣のスタッフに言うともなく囁いた。
今年、私は父を見送った。
85才だった。
中尾の年でも元気だった。だからほっておいたら、あっという間に逝ってしまった。
「とんでもないことだよね」
もう一度、心の中でつぶやいた。
22分後、中尾は帰ってきた。
「寒そう、かわいそう」
隣の高校生がつぶやいた。
中尾は何度か心臓のあたりを押さえ、小刻みに震えながら、2周目に向かった。
「もういいですよ」
という言葉がでかけ、足を踏み出した。
中尾は振り向きもせず、海原に向かった。
来ない。帰って来ない。
44分、45分、46分・・・
その時、ゴールの反対側で待つスタッフの携帯がなった。直後、スタッフはゴールと反対側に走り出した。
何かが起きた。
瞬間、スタッフを追った。
死
中尾を密に付き合いだして1年。いつもどこかで「死」はいつ来てもおかしくないものとなっていた。
中尾自身が、レース中の「死」を望んでいると感じることも少なからずある。
その数秒は思い出してだけでまた胸が激しく鳴る。
幸いスタッフの目線の先には、あつく毛布につつまれ、それでも座って、ひたすら震える中尾がいた。
生きていた。
若い医師はただそばに立ちすくんでいた。
取材陣は遠巻きに中尾を映している。
そこにいるのは、ただただ震える82才の中尾だった。
スタッフと二人で、足をさすり、手を包み込む。
泣いてはいけない。だから、ひたすら中尾を暖めることだけに専念する。
ほんの少し、指先が温まり、顔色が戻ってくる。
それでも、たださすり、暖める。
心の中で「ごめんなさい。ごめんなさい」とつぶやきながら。
「中尾さん、体脂肪、体脂肪をつけましょう」。何とかごまかした涙が乾いた時、思い切って話を始める。
「つめたかったなあ、つめたかったな」
中尾は繰り返す。
「波もつらかったなあ。前にいっているのか、後ろにいっているのか、しまいにはわからなかった」
リタイア
その葛藤を知っている人間は何人いるのだろうか。
苦しんで苦しんでのリタイア、プロだからと次を見据えてのリタイア、誰かに背中をたたかれてのリタイア・・・形は色々だが、リタイアのせつなさは、リタイアをしたことのある人間しかわからない。
NHKの取材、合併して最後の大会となった町民たちの気持ち、たぶんサポートしている私たちも、中尾がやめたいと思った時、かわるがわるに逡巡させる原因となったのだろう。
1周目でやめさせていれば・・・・
「すいません」
中尾の言葉が私の心をちぎった。
午後、体が温まれば、中尾は超人だ。
ビールを飲んで、寿司をつまんで、完走のために何が足りなかったのかを考える。
発芽玄米だけでなく時々白米、肉も食べよう、うなぎなども少々。
いや、理論的に裏づけをとろう。
その時、寿司に入ってきたのが、リレーでスイム女子2位、3位の選手を含むグループ。
中尾は気になってしょうがない。
「冷たかったですなあ」
「えっえー、ちっとも。私たち、ドーバー海峡横断に備えて、ウェットを2枚も着てますから」
「冷たくない、冷たくない・・・」
その日、中尾は何度もつぶやいた。
「おそれいりました。あの冷たい海水をちっともという人ばかりです。いやあ、まいったなあ」
中尾は町で会う人、会う人に告げた。
戦いの終わったその日から、中尾の新たな戦いの日々が始まる。
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